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朱雀門について

この「朱雀門」は京都美術館所蔵の古典絵巻「長谷郷草紙」によったもので、作者も年代も明らかでない。
ただ絵面に見られる風俗などから応仁の頃とする推定によった。

又、絵巻物の常で絵画以外文書は無く、物語はただ六葉の画面から続みとられる単純なストーリーに潤色を加えたものである。音楽も雅楽京都の民楽のニュアンスをとり入れ、絶えず物語りを併行させてドラマティックなタッチで作曲した。



       メッセージに代えて                鈴木静一

輝かしい発展を続ける日本マンドリン界に対し、余りにも少ないオリジナル作品の頻繁なくり返し奏者だ

けの悩みでなく、聞く側からも不満の声を聞く。私はかねてから汎音楽作品からの編曲を提唱して米た。私はあ

らゆる音楽(器楽などの特定作を除き)差別は無いとする考えは今日も変らない。但し素材の選択には慎重でな

ければならぬことは、いつもくり返し要望しているが、選曲さえ誤らなければマンドリンにはもっと広い世界が

ある筈である。オリジナルに徹するマンクラのレパートリーに“オラッツイォ クリアッツォ兄弟″ を始めい

くつかのレギュラ−オーケストラ作品の有ることを思い出しレパートリーの増幅を考えて頂きたいのである。

もうひとつの提案は最近僅少ではあるが近代楽曲(現代楽はないが)を、とり上げる動きが現れ始めているの

は、まことに慶賀にたえない。当代のマンドリンオーケストラは、かなり高度の“音楽造形"の力を増して来て

いる。クラシック--ロマン--その後期は勿論、印象派以降の近代楽(ドデカ----ツヴァィツェン以前の)作

品への意欲のかたまりはたのもしい限りであるが、一面あらたな困惑に当面している。

それは近代作品に現れる和音の密集--即ち多声音階で書かれたものに対するマンドリンのトレモロ奏法であ

る。これに就いては限られた紙面では無理なので…例を上げるが、ギターでは複雑な和音(クラシックになれた

耳には違和感のある)が単なる雑音にならないことは、トレモロとピツッコイの発音の相違に依るもので、これ

は今の次元では、作--編曲、そして奏法上の研究課題である。

私はそうした困難(?)の伴う以前、まだまだ沢山の作品の有ることを考え、レパートリーの幅を拡げること

を重ねて提案する次第である。

(マンドリン楽の前進を祈りつつ、1972初夏記)

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